上のブログの続きになります。
とりあえず前回の要約です。
- 現在の盛岡市から奥州市あたり (奥六郡) を治めていたのが安倍氏という豪族
- 安倍貞任 (一族の棟梁) の居城「厨川柵 (くりやがわのさく) 」は現在の盛岡にあった
- 朝廷は安倍氏の勢力拡大を警戒
- 源頼義・義家という親子 (宮城・多賀城在住の武士で役人) & 清原氏 (秋田の豪族) を使って安倍氏を倒す【前九年合戦】
- 清原氏の勢力が拡大し、内部抗争が起こる【後三年合戦】
- 両親の影響で安倍氏→清原氏の一族を点々としてきた藤原清衡が実権を握る【平泉誕生】
- 源頼朝が平泉を滅ぼす【奥州合戦】
前回は主に安倍氏や奥州藤原氏について書いたので、今回は源氏について書いてみたいと思います。
源頼朝と奥州合戦
鎌倉幕府でおなじみ、あの頼朝です。
平泉に逃げ込んでいた弟の義経を自害に追い込み、奥州藤原氏を滅ぼします。これは奥州合戦 (おうしゅうかっせん) と呼ばれます。
天下を取って幕府を開くためには、義経と藤原氏の存在が脅威でした。
ちなみに当時の平泉は平安京に次ぐ大都市。平安末期、京の人口は15万人ほど (※) 、平泉は10万人ほど (※) と推定されています。(※諸説あり)
平泉を攻め落とした時点で頼朝の勝利は決まっていましたが、28万もの兵を引き連れ、厨川の地 (現在の盛岡) まで北上してきました。
祖先を相当意識していたようで、過去に起こった前九年合戦を再現したといわれます。
奥州合戦後、厨川の地を伊豆国 (現在の静岡県) の工藤氏に治めさせます。合戦に同行した人物です。
源頼義・義家親子
頼朝が意識しまくっていた祖先、頼義 (よりよし) 、その息子の義家 (よしいえ) です。
出身は河内国 (現在の大阪府) ですが、朝廷に任命され、国府と呼ばれる地方行政の役所「多賀城」 (現在の宮城県多賀城市) にいました。
陸奥守 (むつのかみ) 兼 鎮守府将軍 (ちんじゅふしょうぐん) として、現在の東北地方をまとめる役割を担っていました。
前九年合戦で安倍氏と戦い、勝利しています。最終決戦の場となったのが、安倍貞任 (一族の棟梁) の居城があった厨川、すなわち現在の盛岡です。
この勝利により、源氏は東国 (現在の関東地方) で勢力を強めます。のちに頼朝が武家政権 (いわゆる幕府) を立ち上げる大きなきっかけになりました。
NHK大河ドラマ『炎立つ』(1993年放送) に登場した頼義と、佐藤浩市さん演じるイケメン義家 ↓↓
頼義・義家が安倍氏に勝利し、源氏の武士としての礎を築いた厨川 (現在の盛岡) は、頼朝にとって「聖地」のような場所だったのかもしれません。
地元民にもあまり知られていませんが、盛岡市内には頼義・義家ゆかりのスポットがあります。
東北を代表する大河、初詣参拝者が岩手No.1の神社、盛岡の奥座敷まで・・・知っている限り紹介していきます。
厨川八幡宮 (安倍館町)
安倍館 (安倍氏の嫗戸柵だった説あり、のちに工藤氏の居城) に鎮座しています。
前九年合戦の際、頼義が戦勝を祈願したのが京都の岩清水八幡宮です。義家が元服したのもこちら。
岩清水八幡宮より分霊し、厨川の地に祀った社が、厨川八幡宮のルーツになっています。
(頼朝が建立した神奈川県鎌倉市の鶴岡八幡宮も、頼義が岩清水八幡宮より分霊した社がルーツ)
現在の厨川八幡宮は、江戸時代に入ってから盛岡藩主 (源氏をルーツに持つ南部氏) によって再興されたものです。
八幡森 (高松四丁目)
安倍館の北上川を挟んだ対岸。「はちまんもり」と読みます。
地名としては残されていませんが、八幡森神社 (上の写真の鳥居) 、八幡森児童公園などがあります。
前九年合戦の際、頼義・義家親子が本陣を置き、八幡神を祀った場所という説があります。
八幡森から望む安倍館 ↓↓
手掛けの松緑地・北上川 (高松二丁目)
八幡森の近く、北上川の川岸にあります。
前九年合戦の際、源氏に通じ、安倍氏の情報を漏らした女性がいました。裏切りがバレてしまい、安倍館側から川へ飛び込み、このあたりの松に手を掛けて岸へあがったそうです。
義家が松に手を掛け、安倍氏の居城を見上げたという説もあります。
なお、北上川の源泉「弓弭 (ゆはず) の泉」も親子ゆかり。
暑さで苦しんでいる愛馬のため、義家が弓弭 (弓の両端にある弦をかけるところ) で岩を砕いたところ、水が湧き出したそうです。
厨川稲荷神社 (稲荷町)
創建は不詳。国道46号 (旧秋田街道) 沿いにあります。
前九年合戦の際、頼義がこの神社で戦勝祈願をしたと伝わります。
当時は小さな祠でしたが、のちに厨川を治めた工藤氏が立派な社殿を建立し、崇拝したといいます。
志波城古代公園 (上鹿妻)
安倍氏がこの地を治め、頼義・義家と戦ったのが平安中期。
それよりもはるか前、平安前期に坂上田村麻呂 (さかのうえのたむらまろ) によって造られた志波城 (しわじょう) という城柵の跡地です。
志波城跡と正式に特定されたのは、昭和の時代に入ってから。
それまでは、頼義・義家が前九年合戦で陣を置いた場所と伝えられてきました。
江戸時代 (盛岡藩) の古絵図には「八幡殿御陣場」と記されています。八幡殿とは頼義・義家のことです。
この場所について ↓↓
下太田八幡神社 (下太田)
志波城跡の近くに鎮座しています。
こちらも頼義・義家ゆかり。周辺に陣を置き、八幡神を祀ったと伝わります。
八幡神は「武運 (戦いの勝敗運) の神」でもあるので、源氏のみならず多くの武将が崇拝したそうです。
その影響なのか、八幡信仰に関わる神社が日本で一番多いといわれます。
ちなみに岩手と秋田にまたがる八幡平 (はちまんたい) は、志波城を造った坂上田村麻呂が八幡神を祀ったことに由来します。
盛岡つなぎ温泉 (繋)
盛岡の奥座敷と呼ばれ、代表的な観光地のひとつ。目の前には御所湖、近隣には小岩井農場などがあります。
前九年合戦の際、義家がこのあたりに陣を張りました。
そこにはお湯が湧いていて、「湯ノ舘 (ゆのたて) 」と呼ばれるようになります。(現在も地名に残されています)
義家はそのお湯で、自身と愛馬の傷を癒しました。
その際、近くにあった穴のあいた石に愛馬を繋ぎ、それが「つなぎ (繋) 」の由来になったと伝わります。石は現在も繋温泉神社に残されています。
公式サイト ↓↓
住吉神社 (住吉町)
前九年合戦の際、頼義が大阪の住吉大社より分霊し、厨川の地に祀りました。
もともとは安倍館の近くにありましたが、江戸時代に現在地へ遷座しています。
住宅街にありながら、樹齢300年のケヤキがあったり、緑が美しいスポットです。
地域の人達からは「すみよしさん」と呼ばれ親しまれています。
盛岡八幡宮 (八幡町)
初詣参拝者数が岩手県No.1の神社です。
上でも書いた通り、前九年合戦の際、頼義によって厨川の地に八幡神が祀られました。
時は流れて江戸時代。この地を治めることになったのは、源氏をルーツに持つ南部氏です。
盛岡城内 (現在の盛岡城跡公園) に「鳩森八幡社」がありましたが、城下にいる庶民も拝めるようにと「新八幡」(現在の盛岡八幡宮) が建立されました。
明治時代に盛岡城がなくなり、「鳩森」が「新」に吸収合併されたかたちです。
公式サイト ↓↓
運行される風流山車の人形には、源義家 (別名は八幡太郎) や安倍貞任 (別名は厨川次郎) が登場します。
上の写真は2023年に登場した安倍貞任ですが、横から撮影したものしか残っていませんでした。