いよいよ新紙幣が発行されました。
新五千円札の肖像である津田梅子、盛岡出身のあの人とも親交があったそうです。
新渡戸稲造 (にとべ・いなぞう)
すぐれた国際感覚を持った教育者および思想家で、旧五千円札 (1984年~2007年) の肖像としてもおなじみです。
札幌農学校、京都帝国大学、第一高等学校、東京帝国大学などで青年教育にあたりました。
日本で遅れていた女子教育に取り組み、東京女子大学の初代学長を務めています。
行政官として台湾の開発にも尽力し、糖業発展の礎を築くことに貢献します。(このことがきっかけで岩手と台湾は親交があります)
その他、国際連盟事務次長など世界的な活躍をたくさんしています。
日本の伝統的な道徳教育についてまとめた『武士道 (ぶしどう) 』という著書は世界的ベストセラーになり、現代でも読まれ続けています。
新渡戸と津田は教育者同士ということで親交がありました。本人達のみならず、家族同士も親交があるほど。
津田が創設したのが現在の津田塾大学ですが、新渡戸が顧問になっていた時期があります。津田が亡くなった際、大学の方針を決める会議が新渡戸宅で開かれました。
津田の葬儀では、新渡戸が30分にもおよぶ弔辞を読んでいます。
銅像があるのは「新渡戸稲造生誕の地」という生家跡です。没後50年の年に整備され、小さな緑地 (新渡戸緑地) になっています。
【所在地】盛岡市下ノ橋町4-22
新渡戸は1862 (文久2) 年、盛岡藩士の三男として誕生しました。父は幼い頃に亡くなり、母の教育のもとで育ちます。
この頃、戊辰戦争が勃発。盛岡藩は賊軍の汚名を着せられ、幼かった新渡戸も動乱の世に巻き込まれていくことに。
1871 (明治4) 年、9歳の時に上京し、叔父の養子になります。ここで英語を習得しています。
1877 (明治10) 年、札幌農学校へ入学。在学中にキリスト教の洗礼を受け、卒業後はアメリカやドイツに留学。農学や経済学を学んでいます。
(※その後の活躍は上で書いたとおり)
東西文明の融合を理想とし「願はくは われ太平洋の橋とならん (太平洋の架け橋となりたい) 」という言葉を残しています。
ちなみに新渡戸、この時代では珍しい国際結婚をしています。相手はアメリカ人女性です。
志は高かったものの、働きすぎで病気や鬱を経験したり、生まれたばかりの実子を亡くしたり、順風満帆な人生ではなかったようです。
晩年になると、特に苦しい日々が続くことになります。
満州事変が勃発し、世界から日本への非難が高まります。新渡戸は「太平洋の架け橋」として、平和的解決にむけて奔走します。
それが軍部やマスメディアの反発を買い、激しい新渡戸バッシングがはじまります。日米多くの友人や弟子が新渡戸のもとを去っていきました。
この頃になると、年齢的にも体調を崩すことが増えていたとか。
1933 (昭和8) 年、カナダ・ビクトリア市で倒れ、そのまま帰らぬ人に。享年71歳。
新渡戸の生涯について、こちらに分かりやすく書かれています ↓↓
新渡戸生誕の地および終焉の地ということで、盛岡市とビクトリア市は姉妹都市になっています。
生家跡から中津川沿い、盛岡市役所の北側までビクトリアロードが続いています。1995 (平成7) 年、姉妹都市提携10年を記念して命名されました。
こちらは新渡戸も渡っていたであろう下の橋 (しものはし) です。
1612 (慶長17) 年架橋。藩政時代、新渡戸邸周辺は侍町でした。盛岡城裏門への通路として、多くの武士が渡ったそうです。
中津川には藩政時代に架けられた3つの橋 (上の橋、中の橋、下の橋) があります。
擬宝珠はもともと中の橋 (なかのはし) に付けられていたもので、明治に入ってから下の橋に移されました。
この場所は北上川との合流地点に近いため、たびたび洪水が起こりました。よって昔は簡易的な橋が架けられていたそうです。
下ノ橋教会の前を右折して・・・
中津川右岸を歩きます。
左側は盛岡城跡公園です。
このあたりには、ビクトリア市に多く見られるハンギングバスケットが吊るされています。
初夏から初秋にかけて市街地を彩ります。
「花の都」と呼ばれるビクトリア市。世界の人々から「一番旅行してみたい場所」のひとつに選ばれる街です。
これを参考にして、盛岡市街地はたくさんの花で彩られています。
盛岡城跡公園の芝生広場へ。
トーテムポールといいます。
カナダを中心とした北アメリカ大陸の太平洋に面した北西沿岸部に伝わるもので、魔除け、豊作、豊穣などの祈願が込められているそうです。
姉妹都市提携10年を記念し、ビクトリア市から寄贈されました。
トーテムポールの斜向かいにある・・・
カナダのシンボルともいえる木、サトウカエデです。カナダ国旗の中央にデザインされているのは、この木の葉になります。
こちらも姉妹都市提携10年を記念して植樹されました。
秋になると、市街地でいち早く紅葉します ↓↓
再び中津川沿いへ。
もともと擬宝珠が付けられていた中の橋です。
1611 (慶長16) 年架橋。城に入ることを許された者しか通行できず、一般庶民は渡ることができなかったとか。
現在は周囲の景観に合わせて洋風のデザインに。対岸には盛岡のシンボルともいえる岩手銀行赤レンガ館があります ↓↓
少し戻りまして、ここからは中津川原を歩きます。
左側の階段をのぼりまして、盛岡市役所の裏を歩きます。
新渡戸の胸像がゴールです。
こちらは1976 (昭和51) 年に建てられました。
旧五千円札をイメージすると「なんか違う」と思ってしまいますが、一番本人に似ているそうです。
新渡戸は高い理想に燃えながらも、現実の無理解と常に闘っていました。この胸像にはその苦悩や、闘い続ける強さが表現されているとか。