ブラモリオカ

岩手県盛岡市をブラブラしています

紺屋町にあった盛岡駅

今回は紺屋町 (こんやちょう) と、かつて鍛冶町 (かじちょう) や紙町 (かみちょう) と呼ばれた地区を取り上げます。

盛岡を舞台にしたドラマや映画、旅番組のロケによく使われます。

岩手銀行赤レンガ館があるあたり・・・

cgon.hatenablog.com

現在は中ノ橋通 (なかのはしどおり) の一角ですが、かつては紺屋町でした。南北に走るのは旧奥州街道です。

西側には中津川 (なかつがわ) が流れ、中の橋 (なかのはし) が架かっています。その先には盛岡城跡公園があります。城と街道が隣接しているのは、城下町の発展を考えてのことだとか。

このあたりは札の辻 (ふだのつじ) と呼ばれました。高札場 (こうさつば) があったことに由来します。藩からの布告や法令などを板に書いて掲げるアレです。(時代劇でよく見かけますね)

ここから旧奥州街道を北上します。

右側の建物は盛岡信用金庫本店です。

1927 (昭和2) 年に盛岡貯蓄銀行として竣工。岩手銀行赤レンガ館にも携わった盛岡出身の建築家、葛西萬司 (かさい・まんじ) の設計です。

信金脇の通り・・・

愛染 (あいぜん) 横町と呼ばれます。突き当りは葺手町 (ふきでちょう) と呼ばれ、わんこそばで有名な東家 (あずまや) があります。

藩政時代、町人や牛馬曳きは札の辻を敬遠してここを通ったとか。

再び旧奥州街道へ。

正面に見えるのは東北電力岩手支店の鉄塔です。

道がカーブしていますが、右側 (葺手町との間) に斗米山 (とっこべやま) という小さな岩山があったからだそうです。

この斗米山、宮沢賢治作品『とっこべとら子』の舞台になっています。この山に住むキツネのお話です。

そんなカーブ沿いには老舗店が2つあります。

右手前の釜定 (かまさだ) は100年以上続く南部鉄器のお店です。

左奥の茣座九 (ござく)・森九商店 (もりきゅうしょうてん) は200年以上続く元豪商で、屋号のとおり、ござ、畳、竹細工などを扱っています。

そんな茣座九を反対側から。

藩政時代、茣座九の先には鍵屋 (かぎや) という呉服屋がありました。盛岡藩随一の豪商でしたが、明治政府の謀略により没落しています。

跡地には、渋沢栄一が興した第一国立銀行の支店が置かれました。銀行閉店後に盛岡電灯会社 (現在の東北電力岩手支店) が置かれ、現在に至ります。

藩政時代の紺屋町には、多くの豪商が軒を連ねていたとか。明治以降はいくつかの銀行が作られ、常に盛岡経済の中心地でした。

そして東北電力の向かい (下の写真右側) には・・・

名産の南部しぼりを扱う染物屋 (紺屋) の草紫堂 (そうしどう) があります。

南部しぼりとは草木染のことで、ムラサキという植物を使った紫根染 (しこんぞめ) 、アカネという植物を使った茜染 (あかねぞめ) があります。

盛岡藩の特産品として徳川幕府にも献上され、手厚い保護のもとで生産されていました。明治以降は途絶えましたが、大正昭和期に復活しています。

もうお気づきかもしれませんが、紺屋町の名前はこれに由来します。その昔、染物屋のことを紺屋 (こんや) と称しました。

町の西側を流れる中津川。その清流を利用できることから、周辺には多くの紺屋が集まりました。

奥には紺屋町番屋 (こんやちょうばんや) が見えます。

紺屋町のシンボル的な建物です。

かつては消防団の番屋 (詰所) でした。盛岡の消防団は、藩政時代から続く南部火消し (なんぶひけし) の伝統を受け継いでいます。

1913 (大正2) 年に建てられたものが改修され、現在に至ります。内部にはカフェなどが入り、地域の交流施設になっています。

その番屋の前から、今歩いてきた通りを・・・

左側には南部せんべいの老舗、白沢せんべい店があります。

非常に種類が豊富で、抹茶味、ココア味、コーヒー味なんかもあります。盛岡冷麺味や激辛味などの変わり種も。

バス停を通り過ぎて、自家焙煎コーヒー屋クラムボンあたりは・・・

かつて鍛冶町と呼ばれました。刀鍛冶や鉄砲鍛冶、農機を作る野鍛冶などの職人が住む町だったことに由来します。現在は紺屋町の一部です。

実はこの鍛冶町、藩政時代は非常に重要な場所でした。

マンションの前にひっそりとある石碑・・・

「史跡 奥州道中 鍛冶町一里塚跡」と記されています。

江戸日本橋から続く奥州街道。一里 (約4Km) ごとに塚 (目印の小山) が築かれていました。鍛冶町はその139番目に当たります。町中ということで大規模な塚は築かれなかったとか。

この場所は盛岡藩における街道の元標 (起点) であり、脇街道 (宮古街道、秋田街道など) はここから延びていました。

全国各地の街道には宿駅 (しゅくえき) と呼ばれる拠点があり、そこを中心に宿場町が発展していきました。鍛冶町はその宿駅があった場所です。

各宿駅には馬が用意されており、リレー形式で荷物、情報、人までが運ばれていました。これは伝馬 (てんま) と呼ばれます。ちなみに「駅」という漢字はこれに由来します。

宿駅が置かれていたため、このあたりを「盛岡駅 (もりおかえき) 」と呼んだそうです。東北本線盛岡駅が開業した明治以降もしばらく呼ばれていたとか。

上の写真の建物は明治期に建てられた黒漆喰の土蔵造り、旧井弥 (いや) 商店です。数年前まで自然食品を扱うお店として営業していました。

このあたりは紙職人が住んでいたことに由来し、紙町 (かみちょう) と呼ばれました。現在は上ノ橋町 (かみのはしちょう) の一角です。

下の写真奥に見えるのが、町名の由来となった上の橋 (かみのはし) です。

肉の米内 (よない) は、岩手県内で一番歴史がある精肉店です。系列の焼肉レストランで提供している盛岡冷麺は、国産牛のスジや骨を使った超濃厚出汁スープが絶品。

その斜向かいにあるのが東光書店 (とうこうしょてん) です。

近年めっきり少なくなった昔ながらの古本屋です。

ここで一度スタート地点 (岩手銀行赤レンガ館付近) に戻り、紺屋町裏の中津川沿いを歩きます。

奥に見えるのが、盛岡城跡公園に続く中の橋です。詳しくは前回のブログに書いています。

cgon.hatenablog.com

ツタに覆われた喫茶店ふかくさ。

中津川のせせらぎを窓越しに、ゆったりとした時間が過ごせます。

その先には、茣座九・森九商店の裏塀と蔵が見えます。

上の写真左奥には岩手県民会館が見えます。その下に架かる与の字橋 (よのじばし) は、紺屋町番屋と東北電力の間につながります。

橋名は、紺屋町の消防団が「よ組」と呼ばれていたことに由来します。

第一国立銀行 (東北電力の場所) と岩手県庁をつなぐために架けられました。よって銀行橋 (ぎんこうばし) と呼ばれていた時代があります。

その橋の上から臨む中津川と鍛冶町裏。

再び上の橋へ。

盛岡城下で一番最初に架けられた橋で、上を走るのが旧奥州街道になります。1609 (慶長14) 年、盛岡城が築かれたのと同時に架けられました。

青銅擬宝珠 (せいどうぎぼし) が18個付けられています。

橋が架けられた当時から残るものが6個。他の擬宝珠も藩政時代から残ります。

これほど残っているのは珍しく、1945 (昭和20) 年に国の重要美術品となりました。これにより第二次世界大戦の金属供出を逃れています。

上の橋対岸も旧紙町です。

その先には京都出身の商人が多く店を構え、京町 (きょうまち) と呼ばれた現在の本町通り (ほんちょうどおり) があります。