ブラモリオカ

岩手県盛岡市をブラブラしています

盛岡さくらまつり会場~盛岡城跡公園の腰曲輪に迫る

盛岡市の中心部には盛岡城跡公園があります。

豊臣秀吉の命を受け、藩主・南部氏の居城として盛岡城がつくられました。

安土桃山時代後期から明治時代初期まで300年近く、城内には何かしらの建物が建っていたそうですが、明治7年にすべて取り壊されてしまいます。

明治39年、城跡が公園として整備されました。

そんな盛岡城跡公園、菜園地区側の入り口です。

盛岡城時代、このあたりには坂下御門 (さかしたごもん) がありました。傾斜になっている部分は吹上坂 (ふきあげざか) と呼ばれます。

周辺にある案内図。

白い矢印の場所 (吹上坂) から入って、反時計回りに紹介していきます。

坂をのぼり、石垣の上へ。

この場所には吹上御門 (ふきあげごもん) がありました。

御門跡の先には・・・

一面にソメイヨシノが植えられています。明治時代から残る木もあります。

石垣の上から吹上坂を見てみます。

天気が良いと岩手山が望めます。

現在ビルや民家が建っているあたりには北上古川 (きたかみこがわ) が流れ、堀の役割をしていました。

築城時は北上川の本流でしたが、大規模な流路変更が行われています。相当な暴れ川で、城の完成を大幅に遅らせたとか。

古川の先には城内で食する野菜を作る御菜園 (ごさいえん) がありました。現在も繁華街に「菜園」という地名が残されています。 

再び石垣の上へ。

今回紹介する一帯は腰曲輪 (こしくるわ) と呼ばれ、城の守りを堅くするために重要な場所でした。

盛岡城では本丸 (城の中核となる曲輪) を囲むかたちで、一段低い区画となっています。

今回は白い矢印のルートで紹介していきます。

白い丸で囲ったあたりから見た、本丸の石垣がこちら。

石段がありますが、こちらは明治時代に公園として整備された際に付けられたものです。

本丸には大奥などがありました。

ドラマや映画の影響で江戸城のイメージが強いですが、諸藩にも設けられていたとか。

男子禁制なのは盛岡城も同じ。幕府の決まりで正室江戸屋敷に居たため、側室や女中が生活していました。

鉄鎖が付いていますが、江戸時代に北上川 (明治橋あたりにあった新山舟橋) で舟をつないだものと伝わっています。

石段の前には吹上馬場 (ふきあげばば) がありました。

馬場とは、馬術の練習や競技をする場所のこと。左手前の木のあたりに観覧席 (御馬見所) があったようです。

白い丸で囲ったあたりが馬場です。

続いては赤い丸で囲った4ヶ所。腰曲輪にあった建物について。下の写真 (①~④) の石が敷かれて高くなっている部分が名残です。

① 吹上三社

② 御宝蔵

③ 二重隅櫓 (大櫓) 

④ 小櫓

①は神様をまつる社、②は貴重品を所蔵する宝蔵、③は武器庫としての櫓、④は何に使われていたか調べられませんでした。

続いて・・・

左手前の木、数年前まで盛岡市の桜の開花を知らせる標本木でした。(現在は盛岡地方気象台の桜に変更)

このあたりは淡路丸 (あわじまる) とも呼ばれます。これは盛岡城築城前にあった城郭の淡路館 (あわじだて) が由来です。

白い丸の上あたり・・・

「櫻山神社趾」の石碑があります。

ここには櫻山御宮 (櫻山神社の前身) がありました。

明治時代に盛岡城が政府に接収され、神社は市内各所を転々とします。そして明治33年に現在の場所へ。

櫻山神社について、詳しくは下の記事で ↓↓

cgon.hatenablog.com

淡路丸から見た本丸の石垣です。

城内で一番古い石垣になります。

こちらは自然の石をそのまま積み上げる野面積 (のづらづみ) といいます。加工を施さないため隙間や凹凸が多く、敵にのぼられやすいデメリットもあったとか。

淡路丸の先には石段があり、下には多目的広場があります。

この広場、盛岡城時代は御台所 (おだいどころ) と呼ばれ、城の財務を担う重要な施設がありました。

石段の途中には井戸跡があります。

とりあえずはここまで。

もりおか歴史文化館の模型を使って、盛岡城腰曲輪の雰囲気を。

そんな盛岡城跡公園の腰曲輪ですが・・・

4月になると桜が開花し「盛岡さくらまつり」の会場になります。(ちなみに本日3月27日は「さくらの日」です)

腰曲輪の話に戻りますが、今回あえて紹介しなかった部分があります。こちらは紅葉が美しいスポットなので秋になったら♪

こんな感じで、来年度は盛岡城にも迫っていきたいと思います!